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レジリエンスを考える(前編)

レジリエンスを考える(前編)

新型コロナウイルスの世界的流行は、世界を大きく変えたと言われています。いま私たちも、その新しい世界の中でもがき苦しみ、ときには喜び楽しみながら流れに身を委ねている状態です。では、この流れはどこに行き着くのでしょうか。コロナ禍が終わったとき、この日本社会はどうなっているのか、何が求められていくのか、働き方はどう変わるのか。コロナ禍後社会を研究している社会文化研究家 池永寛明氏にインタビューしました。
連載でお送りしていきます。

プロフィール

池永寛明(いけながひろあき)
社会文化研究家
(元 大阪ガスエネルギー・文化研究所所長、元 日本ガス協会企画部長)

・日本経済新聞 note 日経COMEMOキーオピニオンリーダー
https://comemo.nikkei.com/
・大阪大学 Society5.0 実現化研究拠点支援事業 (一社)データビリティコンソーシアム 事務局長・well-being部会会長
堺屋太一研究室 主任研究員
・大学・企業等向けの講演講義多数
・著書(日本再起動」「上方生活文化堂」など)

これまで、「コロナ禍後社会はどうなる」というテーマで9回にわたりお話をしてきました。コロナ禍の「禍」は、元には戻らないことを意味すると連載の冒頭でご紹介しましたが、同じく大きな社会的価値観の変化をもたらしてきた「禍」の1つである大震災、それにより社会はどう変わったのか、そこから何を学び、何を為してきたのかについて、2回に分けてご紹介していきたいと思います。

現在地にある私たちのリスク ~地震大国ニッポン~

2023年8月を過ぎ、東日本大震災が発生してから12年が経ちました。あれからも日本では大きな地震が数多く起こっています。

震度7を記録した熊本地震(2016年4月)、北海道胆振東部地震(2018年9月)を筆頭に、大阪を直撃した大阪府北部地震(2018年6月)、新幹線が脱線した福島県沖地震(2022年3月)、記憶に新しい能登半島の地震(2023年5月)など、2011年3月以降でも震度6弱以上の地震は28回、年に2回以上のペースで発生しています。また、世界でも2023年にトルコ地震が大きな被害を出しており、地震という災禍の大きさを痛感している方も多いことでしょう。

さらに、南海トラフ沿いの大規模地震(M8からM9クラス)が今後30年以内に発生する確率は、70%から80%といわれています。地震の恐怖やリスクは皆さんも大いに感じていらっしゃるのではないでしょうか。

さて、本稿は「レジリエンスを考える」という主題を置き、進めています。なぜ、話を地震から始めているのか。それは、そもそも「レジリエンス」という言葉がクローズアップされたのが「3.11」、すなわち東日本大震災が起きたから。つまり、震災とは切っても切れない言葉だからです。

社会変化のメカニズム

まず、ここで上図を紹介したいのですが、これは「コロナ禍社会を考える」のときにも何度も登場した、社会変化のメカニズムを表した図です。左側から右側に向かってご覧ください。災害・災禍が起こり、それが価値観を変え、行動様式を変えて、社会構造を変えていくという流れを表しています。

人・社会的価値観の変化と社会の変化

また、こちらの図は、人の価値観・社会的価値観と、制度・ルール、技術開発・仕組み・知的基盤が連動しながら、行動様式を変えていく構造を表しています。人の価値観・社会的価値観が起点となり、社会を変革していくわけです。

つまり、東日本大震災という大災禍が、有事の現実性を思い起こさせ、人の生命、事業の継続性、安全・安心の重要性を再認識させ、「レジリエンス」という概念が新たに登場するなど、価値観を変化させ、それにもとづく制度・ルールができ、行動を変え、都市を、産業を変えたと言えるのです。

それでは、地震大国ニッポンに暮らす私たちのリスクをどう捉え、何を為すべきかについて、「レジリエンス」の観点から話を進めていきましょう。

阪神・淡路大震災で、なにが変わったのか ~レジリエンスのなかった関西~

長田の鉄人28号

戦後日本における「大災禍」の1つは、1995年1月17日に発生しました。言わずと知れた阪神・淡路大震災です。死者6,433人、家屋の全壊10万戸をはじめ、戦後最大の被害となりました。

では、この震災が日本の産業・経済にとって致命傷となり、「災禍」となった原因はなんだったのでしょうか。重工業都市である神戸の機能喪失や、近畿をまたぐ交通・物流網の寸断もさることながら、国際貿易港神戸港の被害が甚大だったからでした。

神戸港は海運のコンテナ化が進む時代にいちはやく対応し、機械化された専用の岸壁を備えるなどして、1976年・1977年には世界2位のコンテナ取扱量を誇っていました。このとき、神戸港は日本の輸出入貨物の取り扱いだけでなく、外国同士を結ぶ船舶の積み替え(トランシップ)も行っており、その積み替えニーズも含めてアジア最大の港湾だったのです。

その後、バブル崩壊という日本経済の低迷や、東アジアの港湾との競争激化を受けながらも、阪神・淡路大震災の前年の1994年はなおコンテナ取扱量世界6位であり、国内ではもちろん1位でした。

しかし、震災ではその岸壁が沈下し、コンテナを扱うクレーンが倒壊するなど、港湾機能がマヒする深刻な損害を受けました。いまでもメリケンパークに崩壊した岸壁が震災遺構として保存されていますが、さも頑丈なコンクリートの建造物が崩壊したその様は、当時の被害の一端を垣間見ることができます。

このように、甚大な被害を受けた結果、1995年の神戸港のコンテナ取扱量は半減。これによって、国際貿易におけるサプライチェーンに影響を与え、その後の日本産業・経済にとっても大きな影響を与えることとなりました。

この後、神戸港のコンテナ取扱量は徐々に回復へ向かったものの、横浜港・東京港・名古屋港などに抜かれてコンテナ取扱量国内トップの位置から滑り落ちました。港湾の復旧時に機能のアップデートを図る予算がつかなかった一方、東アジア諸国が経済成長と併せての港湾整備を図り、海外貨物の多くが中国や韓国の港に流出しました。

結局、トランシップによる海外港同士を結ぶハブ(拠点)港としての存在感も失われ、2021年にはコンテナ取扱量で世界73位にまで低迷。つまり、荷主に選ばれない港となってしまったのです。

また、神戸を含む関西では、バブル崩壊の余波に喘いでいた経済情勢に追い討ちをかけられることとなりました。経済活動が滞っただけでなく、東京への企業移転も進みました。

つまり、「関西はビジネスにおいて重要な地域である」という地勢的強み、「創業の地にビジネスで貢献する」という地域経済循環システムが、この震災とその後の経済低迷により、変化してしまったのです。そして、その産業・経済システムは未だ元には戻っていません。まさに「禍」であったと言えます。

ではこのとき、どうすればこの産業・経済システムの変化を食い止めることができたのでしょうか。

もし神戸の港湾機能が活きていたら、近隣の港湾で代替できていたら、復旧時に最新鋭の港湾にアップデートできていたら…

有事に神戸・関西でのビジネスが継続できるような計画、復旧時のロードマップ、そのようなものが準備されていれば、日本の産業・経済における関西の地位は維持されていたかもしれません。

後の時代を生きる私たちにとって、神戸の被災によって、神戸・関西には次に向かって立ち直る力=レジリエンスを持っていなかった、ということをどう捉えるかが重要になるのではないでしょうか。

東日本大震災で起こったこと ~リダンダンシーの重要性~

阪神・淡路大震災の16年後の2011年3月11日、戦後日本で最大の被害を出した東日本大震災が発生しました。マグニチュード9.0、最大震度は7、津波は高さ最大21.1mにもなって街に、学校に、田畑に、原子力発電所や石油コンビナートにも襲いかかりました。そして、その津波は仙台市ガス局の工場にも襲いかかってきたのです。

まだ肌寒い東北地方の3月で、天然ガスが止まることはさらなる被害をもたらしかねません。そんな中で仙台を救ったのが、なんと奥羽山脈を隔てた日本海側、新潟の日本産天然ガスでした。海港を擁する仙台に、山を越えて設置されたパイプライン。一見冗長なインフラにも見えますが、このガス管ネットワークの多重化により救われたという事実は、リダンダンシー(redundancy)の重要性を私たちに示してくれたと言えるでしょう。

redundancy…冗長性・余剰、多重化、肯定的な意味での「遊び」「余裕」「余地」を指す

また、難病の子どもたちを抱える仙台のある病院では、東北電力からの本線・予備線が遮断し、停電してしまいました。さらに救急患者は普段の2~3倍になり、食事やミルク・おむつの確保にも苦労することになります。ですが、このような状況でも臨時手術2件を遂行できました。なぜか? 実は、都市ガスにて発電をおこない、手術に必要な電力を確保することができたのです。

他にも、大幹線の東北本線が寸断しているからと、これまた新潟から支線区を経由した山越えルートを使い、現地には機関車や運転士すらない状態から急遽走らせた臨時石油貨物列車など、東日本大震災ではリダンダンシーの有効性が明らかとなった取り組みをたくさん見ることができたのです。

そして、このようなリダンダンシーが確保されていることによって、復活に向けた力が蓄えられていること、また、復活に向けてのアイデア・知見・ノウハウを持っていることが、真のレジリエンスということになります。

おさらい ~エネルギーから見る日本の50年~

さて、大震災という災禍が起きたときのレジリエンスを考えるうえで、欠かすことのできない要素がエネルギーです。そこで、日本のこの50年間を、エネルギーの視点から振り返ってみます。

いまからおよそ50年前の1970年、大阪の千里丘陵で万国博覧会が開催されました。この万博のテーマは「人類の進歩と調和」でした。それをあらわすように、この万博ではエネルギーの面でも、2つの画期的な取り組みが行われました。

まず1つ目は、日本初となる原子力発電所からの送電です。福井県から万博会場まで「原子の灯」が届けられました。そして2つ目として、万博会場および近隣の千里中央で日本初、世界最大規模の地域冷暖房が開始されました。

つまり、「電気」と「熱」という2つのエネルギーそれぞれに、技術的に大きなプログラムを内包し、新たな可能性が拓かれた万博だったのです。

その3年後、エネルギー的に大きな変革が起こりました。オイルショックです。1973年、第四次中東戦争を機に、第1次オイルショックが発生。さらに1979年、イラン革命を機に、第2次オイルショックが発生しました。水よりも安いと言われた石油でしたが、世界的に原油の供給逼迫および原油価格の高騰が起こり、それに伴なう経済の混乱を招きました。日本も例外ではなく、2度の石油ショックは安価で安定供給の石油に依存した、日本の産業・経済を直撃することになったのです。

エネルギーは安く安定的に手に入るのだ、そういうそれまでのエネルギーの常識・価値観が大きく変わったのが、50年前の1973年でした。

そして、産業界で「省エネ」の取り組みが急速に進むのと並行して、以下の2つの国の政策がスタートしました。

① 石油代替エネルギー政策 ─ リスクを分散する

② 省エネルギー政策 ─ 「エネルギー負荷」を平準化する

つまり、石油だけでなく、石炭、天然ガス、水力、そして原子力、さらには再生可能エネルギーを活用して、地政学的なリスク変動を抑え、分散させ、ショックを緩和する。

そして、都市化・人口爆発・生活レベルの向上(エアコンの普及など)・産業拡大により拡大し、とりわけ夏季の昼間に尖鋭化した電力需要を抑えることで、発電量のコントロールが容易な化石燃料への依存を減らす。

この2つのアプローチにより日本の産業・経済のレジリエンスを高めようという取り組みが、政策上重要なテーマとして掲げられるようになりました。

つまり、省エネルギーは、50年前から現在においても、国の「一丁目一番地」の主要政策であるのです。

エネルギーと震災

さて、3月11日の4日後、福島原発事故に伴う電力供給の逼迫により、3月15日から関東地方で計画停電が始まりました。

このとき、「東日本が終わってしまう」かもしれないという危機感が人々のなかにありました。また実際に、余震が続くなかでの計画停電は東日本大震災直後から2週間、地域単位の停電のため、都市・産業機能にダメージを与えました。

都市機能へのダメージ 産業機能へのダメージ
  • 街・オフィス・駅の消灯と営業時間短縮
  • 信号機消灯による交通マヒ・交通事故
  • ATMが動かず窓口混乱、金融機能の停滞
  • 冷蔵・冷凍食品の販売不可
  • 医療機器使用不可、診療中止
  • 学校の休校、卒業式・入学式の中止
  • エレベーターの停止(ハンディキャップの方、高齢者に影響)
  • サプライチェーンが機能不全
  • 製品を実質的につくれなかった
  • 製品を計画的につくれなかった
  • 倉庫システムが停まり、物の保管不可
  • 輸送・物流システムが停滞
  • 機械・設備のメンテナンス部品の供給停滞

 

さらに、このような東日本地域の都市・産業機能へのダメージは、西日本地域にも影響をもたらしました。モーター用の部品工場が東北にあり、メンテナンス部品が確保できなくなったため、関西の鉄道が減便・運休したことを覚えておられる方もいらっしゃるのではないでしょうか。

しかしこのような混乱のさなか、六本木ヒルズでは3月18日~4月30日まで、他のビルが計画停電で苦しむなかでもエネルギーを確保し、さらに東京電力に4,000kWを送電していました。

六本木ヒルズを開発した森ビルは 「災害時に人々が逃げ込める街にする」 という思想のもと、合計で38,000kWになるガスコージェネレーションシステムを導入し、電力自給体制を構築していたのです。

一方、神奈川県のある病院では他の計画停電が行われた地区と同様、照明は消え、電気錠の鍵が開き、セキュリティに苦慮していました。また計画停電の20分前からコンピュータを止めたため、通信に困りました。エレベーターが動かないため、食事の配膳に困り、300食を手渡しのリレーで配膳しました。軽油が手に入らず、非常用発電機は役割を果たせませんでした。乾電池が不足し、わずか1~2日でなくなりました。

地震直後と計画停電時では単純比較できないかもしれませんが、仙台の病院が停電下でも手術を実施できた事例と比較すると、事前の備えによって大きな差が生まれたと考えられるのではないでしょうか。

このように、震災が起きたときに、生命を守るため・事業を守るために、生活・事業において必要な重要な機能を動かすために、エネルギーの確保をどうするかというのが非常に大きな論点となります。そして、東日本大震災によってこの論点が顕在化したことにより、生活者・企業にとっての「エネルギー」の位置づけが変わったのです。

そして、国も有事に備え、国土強靭化基本計画を策定してレジリエンスを高めています。

(後編に続く)