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コロナ禍後社会はどうなる(第5回:コロナ禍の真実)

コロナ禍後社会はどうなる(第5回:コロナ禍の真実)

新型コロナウイルスの世界的流行は、世界を大きく変えたと言われています。いま私たちも、その新しい世界の中でもがき苦しみ、ときには喜び楽しみながら流れに身を委ねている状態です。では、この流れはどこに行き着くのでしょうか。コロナ禍が終わったとき、この日本社会はどうなっているのか、何が求められていくのか、働き方はどう変わるのか。コロナ禍後社会を研究している社会文化研究家 池永寛明氏にインタビューしました。
連載でお送りしていきます。

プロフィール

池永寛明(いけながひろあき)
社会文化研究家
(元 大阪ガスエネルギー・文化研究所所長、元 日本ガス協会企画部長)

・日本経済新聞 note 日経COMEMOキーオピニオンリーダー
https://comemo.nikkei.com/
・大阪大学 Society5.0 実現化研究拠点支援事業 (一社)データビリティコンソーシアム 事務局長・well-being部会会長
堺屋太一研究室所長
・大学・企業等向けの講演講義多数
・著書(日本再起動」「上方生活文化堂」など)

前回は、コロナ禍によってコミュニケーションの課題が浮き彫りになり、それを乗り越えるために働く「場」を地理上と建物そのものの二重に変えていかねばならないというお話をしました。
また、これからの10年間はこれまで説明してきたような変化、元には戻らない不可逆的な変化が続くということも再確認しました。
今回は、コロナ禍が社会に与える変化と、コロナ禍の真実、「コロナ禍とはなにか?」について、お話ししたいと思います。

都市構造の変化

都市構造の変化

テレワークにより、人々の自由時間が増えれば、その使い方が変わります。そうすれば都市構造も大きく変わることでしょう。

従来は都心に会社や学校があり、その近くに家があるという構造、「職住近接」が基本でした。もちろん、高度成長からバブル期にかけて職住近接とは到底言えないほどの遠距離通勤もありましたが、新幹線通勤でもおよそ150km(東京から東北新幹線の那須塩原まで157.8km)が限界だったようです。

ですが、テレワークにより都心への通勤・通学がなくなれば、郊外や地方など色々な場所で暮らすことができるようになります。すなわち、これまでは通勤・通学という制約の中で住む場所を選択せざるを得なかったものが、その制約から解き放たれ、自分が本当に住みたい、暮らしたい場所を選択できるようになるということです。

 

また、仕事としてのオンラインミーティングや営業、コミュニケーションに留まらず、買い物も、講演・展示会・説明会などのイベントも、メタバースも含むオンラインで代替されるようになっていくと、例えば平日・土日の交際・接待などは減少や形態変化も起こります。

こうなれば人の流れも変わっていき、従来の「都心はこのような場所、郊外はこのような場所、地方はこのような場所」と考えられていた機能が、人の流れの変化によってその機能も関係性も必然的に変わっていくことになります。

そうなると、「会社に行かなくてもいいのでは?」「都会に行かなくてもいいのでは?」そんな風に考える人々もあらわれ、価値観が変わっていくのではないでしょうか。そうすると、これまでの都心のサービスの形、都心の形も大きく変わると考えられます。

「消費」に見る「リアル」と「オンライン」

ですが、すべてがオンライン化できるかと言えばそうではありません。実物や本物へのアクセシビリティという問題は残ります。

インターネットで注文でき、物流システムによって配達できる「モノ」に関しては、それを必要とする場所にスピーディに確実に届きます。一方、五感を伴うサービスは、当然そこに行かなければ触れたり匂ったり、見たり聴いたり味わったりという体験ができません。伊勢の赤福は家にいながらでも手に入るようになりましたが、五十鈴川の波音を聴き、水面を渡る風を感じながら、伊勢神宮を参拝し、伝統建築を眺めつつ赤福を食べる、という体験は伊勢の現地でなければできないのです。

 

つまり、オンラインで提供可能なサービスと、リアルが必要なサービスをどう組み合わせるのか、どうビジネスを再構築していくのか、これがポイントで、その際にはオンラインとリアルをパラレルにみるのではなく、融合しながら組み合わせて新たな価値を生み出していくということが重要になってきます。

 

リアルかオンラインかではなく、リアルでもありオンラインでもある。

リアルの強みとオンラインの強みはそれぞれありますが、融合することにより新たな価値をいかに創るのか。オンラインでもバーチャルな機能はより進化していくでしょうし、メタバースもどんどん進んでいくことでしょう。そのような中で、どのようにリアルとの組み合わせを融合して新たな価値を創り出すかが重要になっていくのではないでしょうか。

そして、このようなサービスを創り出した会社が競争優位を生み出し、フォロワーが続いてニーズはどんどん高まっていきます。これこそが、コロナ禍を経たこれからの社会で勝ち残っていくための重要な鍵だと考えています。

「リアルの集積地」東京と地方の構造変革

上野駅発車標

さて、都市構造が変わり、都心のサービス市場が縮小するとなったときに避けては通れないのが「これから東京はどうなるか、東京と地方の関係はどうなるのか」という問題ではないでしょうか。

 

コロナ禍以前、東京以外に所在する会社は非常に大きなコストを支払って東京に出かけていました。みんなが東京へ出張することで、その旅費・人件費を払い、地元で本業に携われないことでの機会損失をしていました。

一方で東京所在の企業は、地獄と形容される通勤・通学や日本一高い地代を負担したりなど、従業員の福利厚生への手当が必要なケースはあるでしょうが、出張に伴うコストはないというメリットを持っていたのです。

そして、そのようなコストの支払いを何のために行っていたのか?という問題点について、このコロナ禍は浮き彫りにしました。つまり、「リアル」が東京にしかなかったから、そして「リアルでないとダメだ」と思っていたから、みんな東京に向かったのです。

 

それが、コロナ禍によって価値観が変わり、行動様式が変わり、効率性、そして必然性を考えるようになった結果、「リアルでなくてもいいのではないか」と考えるようになりました。

東京

コロナ禍前の、「情報は東京に行って東京で手に入れる」という考え方、すなわち、毎月、毎週、あるいは常駐してまで東京に行って情報を集め、東京で会議を行い、東京のお客さまを訪問し、東京の役所に向かうスタイル。これがコロナ禍による行動様式の変化によって、東京に行かずともオンラインでリアルの代替が可能になりました。情報の入手も発信も、地元でできるようになったのです。それまでに技術的にはできていたことが、コロナ禍を契機に業務としてできるようになったのです。

結果、企業は東京出張に伴うコストを減らし、収益を上げるように変わってきたように感じます。そうなると、必然的に東京一極集中という歪な構造が是正され、関西を含めた地方都市に重心が戻り、地域経済循環が回り出すことで、国土全体のバランスが戻っていく可能性がでてくるかもしれません。

 

一方で、五感を伴うサービス、すなわちリアルを体験させてくれるサービスは、服や飲食のように、買う前に現物を五感で感じたいというニーズが残る限り、消滅することはありません。そして、このようなリアルを体験させてくれるサービスが集積していればいるほど、その場に人は集まります。

東京は、このようなオンラインに代替できない機能も集積している街です。ファッションもスイーツも、外国発祥でも地方都市発祥でも、多くが東京に進出していきます。このような「リアルが今すでに集積している」という事実は、これからも東京にとっての大きなアドバンテージなのは間違いありません。

ただし、このリアルを体験させてくれるサービスは、決して東京の専売特許ではありません。東京で赤福は食べられても五十鈴川の風は感じられません。京都や奈良や滋賀といった歴史を感じさせる場、北海道や沖縄のような非日常を体感できる場など、その地その地で育まれた文化や自然、歴史も含めて考えれば、東京に集積している「日本性」「リアル」はごく一部に過ぎないのです。

ならば、東京に集積していないリアルをいかに掘り起こすか、自分たちが気付いていなかった素晴らしいものにどうやって気付くか、そしてそれを再起動させ、どうみんなに伝え、どうみんなの感動を喚起するのかが、これからの地方にとっての課題となることでしょう。

既に本格的なウィズコロナに向かう中で、新幹線の利用者数はまだコロナ禍前の水準に到達していないと言われています。また、東京の通勤ラッシュも混雑率が下がったままだと言われています。

つまり、東京一極集中は確実に緩んでおり、東京ではない都市、地方でもビジネスを行うチャンスが広がってきているのです。

そのような中で、大阪・関西は東京が持っていた機能を担う、ビジネス拠点の核の一つになりうると思っています。また、その他の都市にとっても大きなチャンスが巡ってきていると言えるでしょう。

戦時中の昭和16年の法改正で作られ、いまだに続く昭和の東京一極集中体制、国の情報収集・政策決定・予算配分プロセス、東京での許認可システム、これら東京と地方の構造がコロナ禍により、どうバランスの取れたものにしていくのか、いや、私たちがこの構造を再構築していけるかが論点なのではないでしょうか。

社会的検証の結果

コロナ禍が始まって3年を過ぎ、コロナ禍も次のフェーズに入ろうとしています。コロナは収束したというより、コロナ対策に疲れた、がんやインフルエンザよりも死亡者数が少ないこと、社会的に管理するコストが財政を圧迫していることも勘案して、季節性インフルエンザと同等の第五類に分類を変え、自己負担化に移行しようとしています。

結果、海外からの観光客は増え、行動規制もなくなり、観光や繁華街のなにもかもが解放に向かっています。解放を支えるのは、「コロナがありふれたレベルになった」という考えからです。どれほど感染率が高かろうが、様々なリスクがあろうが、がんやインフルエンザより死亡率が低いからという事実で解放は進むでしょう。この点では、コロナ禍以前に戻っていくことになります。

しかし、前回もお話ししましたが、オンラインやテレワークなどの生活スタイルやビジネススタイルは、「コロナ禍を乗り越えるために」ではなく、「コロナ禍を契機に」変わったにすぎません。通勤スタイルなどを戻した会社もありますが、それが不合理だと思う方も多くいるのです。

「コロナが流行したからリモートワークや分散オフィスを作った」というのは、順序としては正しいでしょう。ですが、コロナ禍以前から潜在的ニーズがあったからこそ、テレワークはこれだけ短期間に浸透したのではないでしょうか。また潜在的ニーズがあったからこそ、それがなくなって不合理だと思う方も多くいるのではないでしょうか。

つまり、一連の流れを高い視点から見れば、「コロナ禍を契機に、もとよりニーズはあったが、誰も踏み出そうとしなかった、リモートワークという働き方の社会的検証が行われただけ」なのではないだろうかとも思うわけです。

そして、その社会的検証はおおむね成功していると言って差し支えないでしょう。いまや、平日の昼に家の近くの飲食店でご飯を食べていても、「あの人、在宅勤務なんだ」と思われるだけで、不思議なスタイルではなくなっています。だからこそ、この新しい生活スタイル・ビジネススタイルは「禍」の文字通り、コロナ禍以前に戻ることはないと言えるのです。

コロナ禍の真実

天使のはしご

先述したように、いまや東京出張が大きく減りました。会社に行かなくても問題ないことも分かってきました。色々な社会実験も進みました。そして、従来のやり方を不合理だと捉える人が増えてきました。裏返すと、合理的なやり方を追求する人・会社が増えてきたということになります。

この結果、各社は各社の考える合理性の基準で判断するようになりました。従来のやり方に捉われることなく、東京出張も自由、リモートも自由、このようになってきているのです。

ただし、働き方はあくまで合理性で判断されるべきです。都心に帰ることをよしと考える方はそれでいいですし、在宅で仕事をすることがよしと考える方もそれでいい。ただし、会社が決めたスタイルを取らなくてはならない以上、会社と個人の問題がクローズアップされていく可能性は考慮に入れておく必要があるでしょう。自由という権利を得るための義務をどう果たしていくか、という命題を常に意識すべきと考えますが、これはいずれ別の機会があればお話ししたいと思います。

新型コロナウイルスによる病気は多くの人を苦しめました。一方で、この3年間の「コロナ禍」と呼ばれる「断層」の存在を良いのか悪いのか、と考えるのはナンセンスではないかと考えています。

もはや「コロナ禍以前に戻る、戻らない」という議論そのものが古くなるほど、このコロナ禍の断層を乗り越えた新しいスタイルは浸透し、「当たり前」となりました。

この3年間の社会実験を経て、「そもそも、それはおかしかったのでは?」「こうしなければいけなかったのでは?」「こうでもいいのでは?」とみんなが合理性を考え、何が当たり前か?という価値観を変えてきた結果が、いまのスタイルを「当たり前」たらしめたのです。

第1回の締めくくりに、「コロナ禍の本質は、場と時間の構造変革」とお伝えをしました。ここまでの全5回分を通じ、改めて整理をすると以下のようになります。

場の構造変革とは、その「場」に求める役割が仕事の再定義と合理性を追求するなかで変化し、オフィス・家、都市・郊外の関係のような「場」が質的に変化すること。

時間の構造変革とは、テレワークにより自分時間が拡大し、いかに佳く生きるかを問われる時代に変化すること。

そしてこの両者が絡み合い、人との価値観を変え、複合的にライフスタイルもワークスタイルも変わっていき、その結果、都市も産業も社会も変わっていくというのがコロナ禍の真実と考えています。

これから次々とコロナ禍を契機にリセットがおこなわれ、新たな社会に向けて日本は動き出すことになりますが、次回以降、コロナ禍後の社会を展望するにあたり、何がリセットされるのかについて考えていこうと思います。