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コロナ禍後社会はどうなる(第8回:現在は既に過去である)

コロナ禍後社会はどうなる(第8回:現在は既に過去である)

新型コロナウイルスの世界的流行は、世界を大きく変えたと言われています。いま私たちも、その新しい世界の中でもがき苦しみ、ときには喜び楽しみながら流れに身を委ねている状態です。では、この流れはどこに行き着くのでしょうか。コロナ禍が終わったとき、この日本社会はどうなっているのか、何が求められていくのか、働き方はどう変わるのか。コロナ禍後社会を研究している社会文化研究家 池永寛明氏にインタビューしました。
連載でお送りしています。

プロフィール

池永寛明(いけながひろあき)
社会文化研究家
(元 大阪ガスエネルギー・文化研究所所長、元 日本ガス協会企画部長)

・日本経済新聞 note 日経COMEMOキーオピニオンリーダー
https://comemo.nikkei.com/
・大阪大学 Society5.0 実現化研究拠点支援事業 (一社)データビリティコンソーシアム 事務局長・well-being部会会長
堺屋太一研究室所長
・大学・企業等向けの講演講義多数
・著書(日本再起動」「上方生活文化堂」など)

前回は、コロナ禍前の「失われた30年」を振り返りました。コロナ禍という大変革期を経て、コロナ禍後社会を考えるにあたって、前回に続いてコロナ禍前の社会は何だったかを考えていきます。

変化を嫌う日本

普段みなさんはどのように音楽を聴かれるでしょうか。音楽における日本市場は世界的にも有数の規模とされており、かつてはレコード、続いてCDの売上枚数で、ミリオンセラーどころかダブルミリオン、トリプルミリオンが連発という時代もありました。その時代は、「レコードの売上枚数」「CDの売上枚数」が、その曲、そのアーティストへの評価であり、好きな歌手の曲がどうなったのか、音楽番組のランキングに一喜一憂した方も多かったのではないでしょうか。

その後、2000年代初頭に「着うた」や「iTunes」などの音楽ダウンロードサービスが始まり、特典付きCDが人気になって1人が複数枚のCDを購入するような状況になっても、なおCDの売上枚数イコールその音楽への評価は変わりませんでした。結果、CDのみを集計対象とするため、ミリオンセラーは激減する一方、売上枚数が多い曲=表面上は流行している曲と、実際に社会で多くの人が日常的に聴いている曲が異なるという「不適合」を起こすようになりました。

当時からこの矛盾を指摘する声は多くあり、コロナ禍前の2018年にようやく、オリコンがCD単体からダウンロード等も含めたランキングを発表するように変えました。2020年にコロナ禍になり、「ステイホーム」が動画視聴回数を押し上げたこともあって、日本でもダウンロードやストリーミング再生の回数評価が定着しました。

しかし、アメリカの「ビルボードチャート」では、2005年にダウンロード販売を、2007年にはストリーミング再生を、2013年にはYouTubeでの再生回数をランキングに反映させ、「何回聴かれたか」を問いはじめていました。アメリカがCDではない新しいメディアに対応するようになったのは、日本より10年以上も前の話だったのです。その間、日本は「何枚売れたのか」を問いつづけていました。

再生回数日本トップ

音楽業界の話を例にしましたが、このように、日本社会は「変化しない」という選択を取る、「変化」への対応が遅いことが多いのではないでしょうか。ようやく音楽のこの変化はコロナ禍を契機に変わりだしましたが、世界はさらに先を走っているというのが現実ではないでしょうか

スマホの歴史と日本メーカー

さて、音楽の再生回数が重視されるようになった今日、その再生デバイスとしてみなさんが利用しているのは何でしょうか。かつては「ウォークマン」や「iPod」だったでしょうが、今はスマートフォンでしょう。

そのスマートフォンは、いまから16年前の2007年に、アメリカで発売された「iPhone」がその原型と言えます。そして、その翌年には全世界で「iPhone 3G」が発売され、日本にもスマホ時代が到来しました。

当時の日本はガラケー全盛期であり、「スマホなんてブームにすぎない。しょせんゲーム用だよ。」と言っていた日本メーカーの幹部もいました。確かに、iPhoneから電話機能を除いた「iPod Touch」がわざわざ発売されるなど、Apple社でさえ、iPhoneの持つ利用用途やポテンシャルや市場の動向を読み切れていなかった部分もありました。

しかしその後、どうなったのかはご存知の通りです。ガラケー時代は終焉し、AppleのiPhoneに加え、アメリカ企業であるGoogleのAndroid OSを搭載した韓国や台湾、中国のメーカーがスマホの市場を席巻しました。そして、ガラケーに「見切り」をつけられなかった日本と日本メーカーは市場から撤退していったのです。

このような歴史を持つスマホですが、誕生からの15年間で人々の生活・行動様式を一変させました。ライフスタイル・ビジネスワーク・ラーニングスタイル・ソーシャルスタイルが大きく変わったのです。

スマホがなにを生みつづけているのか

スマホとはなにか?と問われると、人によって答えは違うでしょうが、ひとつ言えることは、「いろいろなモノ(機能)が集約されている。スマホひとつで様々なことができるようになった」ということではないでしょうか。電話だけでなく、インターネットブラウザにメール機能、カメラに地図、ゲーム機に音楽プレーヤーと、多くの機能が詰め込まれています。

さらに、集約されたそれらの機能が掛け算され、例えばカメラ・GPS・インターネットを組み合わせた「ポケモンGO」のように、新たな機能・使い方が生み出されています。

これによって、人々の生活スタイル、人と人との関係、仕事の進め方、学び方は劇的に変わっています。便利になり、効率的になり、人々の生活を豊かにしてくれたスマホの恩恵は非常に大きいものでしょう。

しかし、スマホがもたらしたのは恩恵だけだったのでしょうか。

かつて情報収集は、資料を集め、本を読み、現場に出向くことで行っていました。インターネットが普及してからは、パソコンを操作すれば情報収集ができるようになりました。スマホの普及により、いつでもどこでも、知りたいと思ったときに、スマホで検索して情報を集めることができるようになりました。

このように、情報収集のハードルはインターネットの普及時から見ても一段と低くなり、早く・楽に・スマートに、情報が手に入ることこそ、スマホの最大の恩恵といえるでしょう

ただ、調べようとしたその瞬間に、答えらしき情報を手に入れることがたやすくできるようになり、手にした情報を確認もせずにそのまま受け入れ、それが正しいのか正しくないのかも関心がなくなる、そのようなことが増えています

典型的なのは、手に入れた情報が「フェイク」か「ファクト」か分かりにくいという問題。インターネット黎明期はまだ「情報ソースはどこか、だれか」を問い、情報への信頼性を確認する習慣がありましたが、その確認のプロセスが減り、「フェイク」が堂々と垂れ流される時代になりつつあります。さらに現在、「Chat GPT」のようにAIの進化は加速度的に進んでいますが、これにより一層、ファクトのようなフェイクが激増することが予想されます。私たちは擬(もど)きの時代に突入しようとしているのです。

Google翻訳

このように、スマホの登場は人々の情報との向き合い方、情報の使い方、情報の意味・価値を大きく変えました。言うなれば、スマホは答え・アウトプットを導くプロセスの「ブラックボックス化」を推し進めたのです。

「成熟」が失われた世界はどうなるか

ではスマホが登場し、「問い」から答えを導く「プロセス」がブラックボックスとなり、そのプロセスが見えなくなった世界では、何が起こっているのでしょうか。

プロセスのブラックボックス化

見えているのは、プロセスの前のインプットと後のアウトプットだけとなります。現場に行かず、原典にあたらず、ネットをそのまま信じることが増えてきていると先述しましたが、それで失敗することもあるし、場合によっては間違った情報で経営判断する、そんなケースもゼロではないのではないでしょうか。

すでにブラックボックス化が進み、ステップを踏んでいることすら忘れ、ついには入口すら忘れ、出口だけとなっているケースが増えています。このようにして人の力、企業の力が落ちてきているのではないでしょうか。

では、スマホ登場以前の状況を振り返ると、どうなっていたのでしょうか。

昔は時間をかけて経験を積み、「成熟」していきました。試行錯誤を繰り返し、失敗から学んで、修正して、力をつけていきました。このような成熟期間があったからこそ、臨機応変に危機が乗り越えられたということもあったでしょう。

しかし、このように「成熟」して成長していくというスタイルは今の時代に合っていない、そう考える人も多くなってきました。

つまり、成熟した人の「知」が集積している“はずの”スマホで示された答えに従えば、成熟した人と同等のアウトプットができる。だから成熟して成長するよりも、他のことに時間を使うべきだという考え方です。物心ついた時からのデジタルネイティブ世代とそれ以前の世代の考え方の乖離の要因のひとつでもあります。これも、現代の日本を考える上でも重要な論点です。

例えば、包丁で食材を1cm大に切るとき、スマホで調べれば「1cm大に切る」という情報、料理人の包丁さばきの動画が見つかることでしょう。大根を切るのか、豆腐を切るのか、肉を切るのか、また、あなたの手の大きさや筋力によっても、包丁の持ち方や力の入れ方は変わります。これを、スマホから入手した情報だけで上手くできるのでしょうか?

経験を積み、ときには失敗しながら学ぶことで、食材ごとの適した切り方をつかんでいきます。新たな食材であっても、固さや大きさの似た食材の経験から、切り方を類推することができます。しかし、経験による成熟がなければ、「1cm大に切る」ことの意味を体得していけません。

スマホと進化論

このように人々がスマホの見せるアウトプットだけに従うようになった世界では、何が起こるでしょうか。

ダーウィンの「進化論」とそれに連なる研究において、生物は同種のなかで新たな環境に適応した特性を持つ個体が生き残ることで進化し続けてきた、とされています。言い換えると、同種のなかで他と違う特性を持ったものがいなければ、その種は環境の変化に適応できず、進化どころか淘汰されるということにもなります。

では、スマホに従う均質的な集団は、新たな環境、すなわち新しい価値観や技術に適応し生き残ることが可能なのでしょうか。

例えば車の運転。いまやタクシードライバーでさえカーナビを使うようになりました。カーナビ、あるいはスマホアプリのGoogleマップを使うことによって、ドライブは便利に、楽に、正確になったような気になっているでしょう。

一方で、慣れた道ではカーナビの示すルートと違うルートを選ぶこともあるのではないでしょうか。これこそ、カーナビによるブラックボックスなプロセスのアウトプットよりも、「自身の経験との照合」というプロセスを経たアウトプット(別ルート)を選ぶ方が良いと判断したからに他なりません。

「この時間のこの道は下校する子どもが多く危ない」とか、「右折矢印信号がないから曲がりにくい」とか、試行錯誤を繰り返し、失敗から学んできた人は、このような対応ができるはずです。逆にそのような想像力・アウトプットを導く、経験にもとづいた知識なりナレッジがなく、スマホやカーナビにのみ頼ってばかりいたら、目的地へのスムーズな運転ができなくなるかもしれません。

Googleマップ

ちなみに、イタリアはフィレンツェのタクシー運転手の資格試験では、カーナビやグーグルマップを使わずに、自らの地理感覚で目的地にたどり着くことが求められるそうです。これはまさに、プロセスをみずから踏んで答えを導く、ブラックボックス化しないように、人の力を守り育てる取り組みといえるでしょう。

現在は既に過去である

ここまで、スマホのアウトプットに従うことについてお話してきましたが、最後に、スマホのアウトプットの本質をお伝えしようと思います。

スマホのアウトプットとは、「過去の知」でしかありません。過去に誰かがやったことを集積しています。それは、限りなく現在に近い過去かもしれませんが、あくまで過去であり、それに従うということは、過去からの延長線上に他なりません。

そこを理解していないと、最新のデバイスを使っていたとしても、レコード・CDの売上枚数に固執したような「変化を嫌い、世界から取り残された日本」からは何も変わっていないのです。

日本が足踏みしている間にも、現在進行形で世界は大きく変わっています。コロナ禍を経て、その変化はより加速しています。日本が成長するには、変化した世界に適応し生き残るには、どうすれば良いのでしょうか。

スマホのアウトプット、「答えらしきもの」を信じ、自らはそれ以上のものを生み出せない人々になるのか、自ら情報を集め、自ら考え、自らアウトプットを導き出せる人々になるのか。答えはおのずと見えてくるはずです。

スマホをはじめとする技術の便利さ・スマートさ、その裏返しで起こっているのが何か、その変化の構造、その本質をつかむことが、重要なのです