特集

カテゴリを選択

コロナ禍後社会はどうなる(第7回:人々の変わる価値観に対応せよ)

コロナ禍後社会はどうなる(第7回:人々の変わる価値観に対応せよ)

新型コロナウイルスの世界的流行は、世界を大きく変えたと言われています。いま私たちも、その新しい世界の中でもがき苦しみ、ときには喜び楽しみながら流れに身を委ねている状態です。では、この流れはどこに行き着くのでしょうか。コロナ禍が終わったとき、この日本社会はどうなっているのか、何が求められていくのか、働き方はどう変わるのか。コロナ禍後社会を研究している社会文化研究家 池永寛明氏にインタビューしました。
連載でお送りしています。

プロフィール

池永寛明(いけながひろあき)
社会文化研究家
(元 大阪ガスエネルギー・文化研究所所長、元 日本ガス協会企画部長)

・日本経済新聞 note 日経COMEMOキーオピニオンリーダー
https://comemo.nikkei.com/
・大阪大学 Society5.0 実現化研究拠点支援事業 (一社)データビリティコンソーシアム 事務局長・well-being部会会長
堺屋太一研究室所長
・大学・企業等向けの講演講義多数
・著書(日本再起動」「上方生活文化堂」など)

前回は、2030年に向けて社会がどう変わっていくのかを読み解くために、コロナ禍のような「ブラックスワン」に備え、世界の潮流を読むことの重要性と、戦後日本の経済の流れをお話ししました。

今回は、コロナ禍前の「失われた30年」を見ながら、どうすれば日本経済が再起動できるのかについて、考えていきたいと思います。

水面下の氷を探る

ブラックスワンとして現れたコロナ禍ではありましたが、実はコロナ禍で起こった多くの問題、これまでの本連載で触れてきたような構造的課題の要因の多くがコロナ禍前に埋め込まれています。

つまり、コロナ禍前から現在につながる「基本潮流」「構造的課題」がなにかということをつかみ、課題解決しなければ、コロナ禍が収束しようとも未来は創れません。

ですが、構造的課題の多くは目に見えません。目に見えているのは、真の課題が引き起こす現象である問題が多いのです。例えるなら、海面上で見えている何倍もの大きさの氷が、目に見えない水面下に隠れている南極の氷山のように、構造的課題も大半が水面下に存在しており目に見えないものです。

したがって、目に見えている問題(トラブル)という現象面への対症療法ではなく、トラブルを引き起こしている目に見えない課題(プロブレム)に対する根治療法、真の原因を解決しなければ繰り返し繰り返し問題(トラブル)が発生します。そして、その課題(プロブレム)が見えていない、解決できていないのが日本の停滞の原因なのです。

では、日本を停滞させる真の原因は何なのかを考えていきたいと思います。

堺屋太一氏の未来予想

今から3年前、2020年5月のことでした。堺屋太一氏の友人である船場の経営者2人が私のところにいらっしゃいました。

そして、「堺屋さんが生きてはったら、どない言いはるやろか?」 そう言いながら、生前に堺屋太一さんが喫茶店で書いたというグラフを見せてくれました。

堺屋太一メモ

その堺屋太一グラフには、こう書かれていました。

「1990年が日本経済の頂点」

「そのあと人口減だから、駄目。2010年がボトム」

「次のピークの2050年に向けて、ゆるやかな昇り曲線」

そして、なんと2020年に 「食糧危機?」 と書かれていたのです。堺屋氏が亡くなられたのはコロナ禍前の2019年2月ですので、さすがにコロナ禍の発生は予見されていなかったようですが、コロナ禍以前から顕在化しつつあり、ウクライナ紛争によって追い討ちをかけられた世界的な食糧危機について、ずばり予想されていたのです。

では、そんな堺屋氏の「1990年が日本経済の頂点」という言葉を私たちはどう受け止めるべきでしょうか。また、「2050年に向けての昇り曲線」をどう捉えるべきなのでしょうか。

日本はなにを読み違えたのか

さて、世界の国々と比べても、日本の成長率は非常に低い状態が続いています。堺屋氏が言う1990年の頂点から今日までの「失われた30年」において、日本はなにを読み違え、こうなってしまったのでしょうか?

技術でしょうか? マーケットでしょうか? お客さまでしょうか?

日本が転落していった理由を1つに定めることは困難ですが、1990年からの30年間を振り返ると、1つの仮説を見出すことができます。

それは、1990年代にうまれたデジタル技術、すなわちインターネットが生み出す価値観と、社会・生活・ビジネス様式の変化を読み違えた、からではないでしょうか。

人は昔のことを忘れてしまいがちですが、インターネットがない時代において私たちはどのように仕事をしていたのでしょうか。インターネット以前からパーソナルコンピューターが広まりつつあり、文書作成や表計算などの生産性を著しく向上させました。インターネット時代のメールと情報検索機能、そしてスマホは劇的に仕事の方法論を変えました。10人で仕事をしていた職場が8人となり、6人となり、4人になったという仕事・職場もあるのです。

これだけ劇的な変化をビジネスシーンにもたらした出来事は、この30年間でインターネットとスマホの普及をおいて他にありません。ですが、このあまりに劇的な変化を読み違え、ビジネスの新たなスタイル、カタチに進化させることができなかったのが日本だったのではないでしょうか。

課題は、なぜそのような変化を読み違えたかです。人口が減り、人口構造が変わり、そして価値観が変わっているにもかかわらず、いままでどおりに考え、いままでどおりに行動し、とりわけその前の時代の「成功者」である年配者の価値観に引きずられつづけたためではないでしょうか。

技術中心に考えつづけた日本

旧と新の「入れ子」がずれて、適合不全となった日本。

高齢者・東京を重視し、子ども・女性・地方を軽視した日本。

既存の権威は失墜しても、延命しつづける日本。

くしくも堺屋氏が名付けた「団塊の世代」が主役であったこの30年間、戦後民主主義の産物であるこの人たちが世界の変容を受け入れず、イナーシア(慣性)から変えられなかったということなのではないでしょうか。

知的基盤が薄くなった戦後日本人

深センの子どもたち

この2枚の写真は、私にとって忘れられないシーンで、「世界最速の都市」とも呼ばれる、デジタル企業が集中する中国の深センの書店で撮影したものです。子どもたちは本を買えないわけではないのですが、みんな競争するがごとく本を読んでいます。書店でじっくり読書することが許容されたとして、現在の日本の子どもたちがこれほど真剣に本を読んでいるイメージが湧くでしょうか。

日本は中国・台湾・韓国・ASEANに追いかけられた、追い抜かれていると言われたりしますが、これは決してアップセット(番狂わせ)ではないと言えます。勉強しつづけるアジアと勉強しなくなった日本、この違いが与える影響は非常に大きいからです。

本特集の第3回目にて、知的基盤を厚くするには、学びと知性、マインドが必要であり、ある情報に接したときに、「本当なのか?」「なぜなのか?」と問い、情報の背景、文脈(コンテクスト)をつかみ、情報の理解を深めていくことが重要だとお話ししました。まさに、この30年間の日本人はこの学びにおいて成長するアジア諸国に追いつかれ、インターネットから玉石混交の膨大な情報が流れている中で、「玉」を抜き出すことができなくなっているのではないでしょうか。
第3回:https://www.ogfa.co.jp/feature/detail_013/

そして、新たなビジネスチャンスを掴めず、仕事のやり方も戦後のスタイルを変えられなかった、というのが「失われた30年」の原因のひとつだったのではないでしょうか。

食卓風景に見る変化する日本

さて、ビジネスの世界において厳しい評価の並ぶ日本のこの30年間ですが、ビジネスサイド・企業サイドではなく、一般の人々の身の回り・ライフスタイルはどうだったのでしょうか。

特に生活と結びつきが強い家庭の食卓を取り上げて、見ていきたいと思います。

まずは現在から30年前を見てみましょう。1980年代から90年代にかけて、「日本経済史の頂点」であった時代において、外食といえばステーキを食べることでした。また、レストラン的な背伸びしたステーキを家で食べるのが贅沢とされていました。また、専業主婦のお母さんが家族全員分の夕食を作るという風景も多く見られたことでしょう。

それが、1990年代になると共働きが増え、「簡便第一」がニーズとなってきます。外食でもパスタやピザといった「イタめし」が定着します。あわせてアジア料理からエスニック料理まで、料理のグローバル化もこの頃に進んできます。いまでは普通になったのですが、30年前にグローバル化が起こったということです。

なお、「簡便第一」と「料理のグローバル化」は決して無関係ではないと考えています。簡便に料理を作るために、冷凍食品やレトルト食品、デパ地下総菜などが充実していきますが、レシピを知らない料理でも簡単に作れるとなれば、調理の敷居が高い他国の料理にも目が向きます。

また、バブル期には海外の情報を取り扱う人気テレビ番組も多数生まれましたが、これらで紹介された料理を食べてみたいというニーズも、料理のグローバル化を強く後押ししました。

その後、20年前の2000年代に、韓国・沖縄料理がブームになります。COP3・京都議定書の採択や初代プリウス発売は1997年の出来事でしたが、大量消費社会から循環型社会への転換期を迎える中で、シンプル・健康ニーズが高まっていきました。また、2002年の日韓ワールドカップや2003年頃からの冬ソナブームが韓国料理の普及に貢献したように、グローバルな視点・世界の中の日本という価値観が強まった時期でもあったのではないでしょうか。

なお、この時期に衝撃的なこととしては、料理本レシピの標準メニューが「4人分」から「2人分」となったことが挙げられます。核家族・少子化の進展のあらわれであり、それはフライパンで大半の料理ができるという調理革命を起こしました。

さらに2000年代も半ばになると、喫茶店という呼び方がカフェに変わっていきます。雰囲気のなかで食べたい、飲みたい、寛ぎたいというニーズが高まり、盛りつけ、お皿が大切というふうになります。ブログやmixiなどのSNSが流行し、ガラケーの高性能化・スマホの発売に合わせ、料理の写真をとり、ブログやFacebookにのせて、友人に自慢するようになりました。この傾向は後のインスタブームで定着していくことになりますが、この頃から「食べる料理」から「見せる料理」へと変わっていったのです。

10年前の2010年以降ですが、リーマンショックを経て「安い、早い、簡便、しかも健康である」と、90年代から起こっていることがより本格化し加速していきます。加えて「失われた20年(当時)」を経る中で、「安さ」に重点を置いた作り置きやお弁当ニーズが高まっていきます。ただし、ただ安いだけではなく、キャラ弁のように楽しむ料理になっていくのが特筆すべき点ではないでしょうか。

ちなみに、ご飯に主菜・副菜を箱に詰める日本の弁当は、弁当箱というコンパクトな空間に美味しさや彩りなどを凝縮するという食のコンセプトを込めた「Bento」として世界に広がっています。

また、2011年の東日本大震災以降は、休日の食卓の風景も変わってきます。「絆」にスポットライトが当たり、「みんなとつながる」スタイルが志向されるようになりました。「プチハレ」「パーティ」を楽しむ、「料理を作る」プロセスが大事で、「映え」を重視し、それをインスタ・SNSで発信して「イイネ」を楽しむというように、食卓は食べる空間からつながる空間へと変わっていきます。

そして、コロナ禍の在宅勤務・テレワークの進展に伴って家庭回帰が進むことで、親子で料理をつくる時間が増えたり、家族が一緒となった食事時間が増えたりと、家族団らんの復活が進んでいます。

食卓の変化が示唆するもの

なにわ麵次郎

身近な食卓でさえ、たった30年間でこれだけ変わっています。そして、このような日本の食卓・豊かな食文化は、長い和食の歴史と相まって、ユネスコの無形文化遺産登録やミシュランガイド掲載店舗の増加といった、世界での評価に繋がっています。

そしてこれは、旬にあわせた食、体の健康を考えた食や、美味しさ、洗練さを突きつめるなど、食に対しての飽くなき探求心と向上心で食文化の基盤を厚くし、「玉」を見つけ出してきたからなのでないでしょうか。

また、先ほどの30年間の食卓を振り返る中で、いずれの時代の変化にも共通する事項が2つあります。まず1つは、技術の進歩が食卓の変化を支えているということです。

例えば共働き家庭の強い味方となった冷凍食品。製造・輸送技術の向上によって食材の鮮度を保てるようになった点や、家庭用のガスや電気の調理機器の進化も見逃せない変化です。見せる料理も、手軽に撮影・通信できるスマホやSNSがあってこそですし、その「映える美味しい料理」そのものも、料理教室やクックパッドのようなウェブサイトがその美味しさや彩りをサポートしています。

そして、もう1つの共通項は、変化したのはその時代時代で料理を作っている・料理を楽しんでいる人たちの価値観であり、決して誰かの価値観に引きずられているわけではない、ということです。

つまり、食卓の変化は、人々がインターネットなど技術を用いた新たなスタイルを受け入れた、ときには価値観の変化が先行する中で技術がそれに追いついた、という構造もあったのではないでしょうか。

「マーケティング」は「Market」プラス「-ing」と書きますが、市場は“つねに”現在進行形です。自らが変わらなければ世の中についていくことはできません。

そして、変わることができて、いまや世界に誇る日本の食と、変わることができず世界に置いて行かれたままの日本の企業。単純に比較できるものではないのかもしれませんが、何かを示唆するようなものがあるように思えてなりません。

人々の変わる価値観に対応せよ

社会変化の構造

本連載の第1回でもご紹介しましたが、社会変化の構造(メカニズム)とは、戦争・政変・災害・災禍が社会的価値観という意識を変え、生活・行動様式を変え、時と場所を転換させ、都市・地域、産業、経済を変える、という形で起こっていきます。これを支え、影響するのが技術革新・知的基盤(歴史・文化)です。

さて、「コロナ禍」は文字通り「災禍」ですが、この30年で起こった大きな変化は他にもあります。それが1995年の阪神・淡路大震災と2011年の東日本大震災です。この2回の大災害は、私たちの社会的価値観・意識を大きく変化させています。

先ほどから見てきた通り、食卓にもこれは現れています。「人とのつながり」を重視するように変化したのは、先述したように東日本大震災の影響によるものです。

では、世界中を巻き込んだ災禍であり、老若男女問わず、人々の価値観を大きく変化させつつある今回のコロナ禍ですが、このコロナ禍の3年経った現在、私たちはどう考えるべきでしょうか。

その時代の空気のなかで生まれる人々の新しい価値観に対応して、変化しつづけている食。
特定の世代の、特定の性別の人々の、前の時代の成功体験に引きずられ、変化しなかった企業。

いま、国籍も性別も世代も問わず、人々は新しい価値観に変わろうとしています。
にもかかわらず、なお特定の人たちの価値観に引きずられるのか。これが、堺屋氏の言う「2050年に向けたゆるやかな昇り曲線」を実現できるかどうかの分岐点なのではないでしょうか。